「くすりの富山」の始まり
薬剤師 なお
「富山といえば何を思い浮かべますか?」と尋ねられたら、皆さんは何とお答えになりますか?
富山といえば、食べ物だと「ほたるいか」、「シロエビ」、「寒ブリ」、「ます寿司」、景観だと「黒部ダム」、「立山連峰」、「蜃気楼」、その他では「チューリップ」、「おわら風の盆」などを思い浮かべる人がいるかもしれません。
でも、皆さんの多くは、「くすり」と言っていただけるのではないかと期待しております。
「くすり」と言っていただけると、富山でくすりの仕事についている私にとってはこのうえなくうれしいことであり、また、富山常備薬にとっても大きな励みにもなります。
さて、富山のことを「くすりの富山」と言うこともあります。 最近では、「薬都富山」と言われることもあります。 なぜそのように言われるようになったのでしょうか?その始まりは何だったのでしょうか?
どうして「くすりの富山」?その①
立山信仰の衆徒が広めた
所説ありますが、一つは立山信仰の衆徒が広めたのではないかという説があります。 立山は霊山として崇められていましたが、立山信仰を勧める衆徒が、地獄の苦しみと仏の救いを描いた立山曼荼羅(まんだら)を携え、全国に布教活動を行い、その際にお札を配るとともに、立山で採れる熊の胆やヨモギなどを原料にしたくすりを持ち歩いたのがきっかけでないかという説があります。
立山曼荼羅の絵解き(立山黒部アルペンルートにて)
どうして「くすりの富山」?その②
江戸城腹痛事件
また、もう一つは江戸城での出来事で、現在これが「くすりの富山」が全国に広まった最も有力な説となっています。
時は江戸時代の元禄3年(1690年)、富山藩二代藩主の「前田正甫(まさとし)」(以下、「正甫公」と言う。)が、江戸城の大広間(外様大名の詰所)に詰めていました。
正甫公は、腹痛などの持病があり、常にくすりを携帯していました。
その時、帝鑑の間(譜代大名の詰所)からざわめきが聞こえ、襖を開けてみると、陸奥国三春藩(福島県)の藩主が腹を押さえ、脂汗をかきながら体をよじって苦しんでいました。
それを見た正甫公は、印籠から丸薬「反魂丹(はんごんたん)」を取り出し、三春藩主の口に含ませ体を横にして休ませたとのことです。
しばらくすると、三春藩主の容態は回復し、腹痛も治まったとのことです。
江戸城腹痛事件(富山県民会館分館 薬種商の館金岡邸にて)
そこに居合わせ、三春藩主の様子を見ていた大名たちから、「ぜひとも、わが藩内で反魂丹を売り広めてくれないか」と頼まれ、富山に戻った正甫公は、薬種商の松井屋源右衛門らに反魂丹を造らせ、八重崎屋源六らに全国に廻商させたと言われております。
資料的裏付けはないとのことですが、このことが「くすりの富山」が全国に知れ渡るきっかけとなったのではないかという説が最も有力な説と言われております。
なお、三春藩主の腹痛を治した特効薬「反魂丹」の製法は、備前国(岡山県)の医師「万代常閑(ばんだいじょうかん)」から伝授されたと言われております。
富山だけでなく、福島や岡山など全国のいろんな方々の関わりがあって、「くすりの富山」が広まったのだなと改めて認識しました。
「くすりの富山」の祖 前田正甫(まさとし)
今では、富山県の医薬品生産金額は、都道府県別では全国の上位の常連になるなど「薬都富山」と呼ばれるようになりましたが、富山のくすり産業を奨励し、組織化し、「くすりの富山」の基礎を作ってくれた正甫公は、現在も「くすりの富山」の祖のひとりとして祀られ、富山城址公園には正甫公の大きな銅像が建っています。
富山へお越しの折には、ぜひお立ち寄りいただければと存じます。
前田正甫公像(富山城址公園にて)
参考書籍
遠藤和子.富山の薬売り.サイマル出版会,1993,299p.
(財)富山県文化振興財団富山県民会館.富山の売薬文化と薬種商.日報印刷社,1986,111p.